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2010年09月29日

WAVE in よこて リポート

2010年6月6日(日)におこなわれた、WAVE in よこてのリポートです。

2009年6月6日(日)
秋田県立近代美術館にて
「日本の絵本・戦後60年の歩み(パート2)」

出演者:西巻茅子先生、田島征彦先生、田島征三先生
司会:穂積保(こどもの本WAVE代表)

司会・穂積
タイトルはちょっと勇ましいんですが、日本の戦後60年の絵本の歩みということで、実は昨年11月にこのテーマで、島根県浜田市の世界こども美術館で、今日の先生方と太田さんで70年代くらいまでの話をしていただいたんですが、今日はそれ以降に焦点を当てて、皆さんに聞かせていただければと思います。私は1972年に福音館書店というところに入りまして、日本の子どもの絵本の歴史の何分の一かは一緒に過ごしてきましたので、今日は聞き手として司会進行をさせていただきます。

それではさっそく始めたいと思うのですが、太田大八さんという方は1918年生まれの方で、日本の戦後の絵本の生き字引のような方なんですね。太田さんが生きてきた時代というのが、そのまま絵本の歴史で、その太田さんと一緒に絵本をリードしてきた先生方から、お話をうかがいたいと思います。まずは西巻さんにお話をうかがいたいと思います。『ボタンのくに』『わたしのワンピース』と立て続けにヒットを出されまして、あれは60年代の終わりだったと思うのですが、70年代から80年代にかけて、高度経済成長期とご自身の作品との関係も含めて、お話いただければと思います。

西巻茅子
私は今ご紹介いただいたように、69年に『わたしのワンピース』を描きまして、それが三冊目だったんですが、それから絵本を生涯の仕事と思えるようになりました。70年代に入ると、絵本の専門的な出版社に続いて、それまで童話の本を出していた色々な出版社が絵本を出すようになりました。私はそれより前から出していたものですから、毎週注文の電話がかかってくる。作り手の側での絵本ブームの時代でした。私は子どもを育てていたので、年に3冊程度しか受けませんでしたが、日本の出版社が絵本を本格的に出すようになった時代で、全国でも家庭文庫ができました。

子どもに本を読んで心豊かに育ってほしいと願うお母さんが全国にいて、80年代には読者の側での絵本ブームが起きたと考えています。Pee Booが出たのは88年でしたっけ?その前に月刊絵本という、絵本について語る雑誌が出たのも80年代でしたね。その時代には私は実はあまり活躍していないんです。子育てもありましたし、私は私なりのペースで絵本を作っていました。

穂積
田島征彦さんが絵本を作られたのは、征三さんよりも早かったんですよね?

田島征彦
あれは自分で勝手に作ったんです。僕が大学に入って、恩師の稲垣先生、80歳近くなって人間国宝になって亡くなられた、人間的にもとても尊敬している先生が、武井武雄さんたちと、豆本を作る会をされていた。染色の授業なのに絵本を作ろうという授業をやっていて、それが初めて絵本に興味を持つはじめになった。簡単な版画の手法で20冊くらい作って、それが非常に面白くて、シルクスクリーンで200冊作ったらお金がかかったので、東京へ行って、せいちゃんにこの本売ってくれんかって。せいちゃんが「これはええ、クラスのやつに売ってやるき」って言ったんだけど、全然売れなくて。僕はせいちゃんに絵本の種をまいたけど、自分ではそれから20年くらい絵本はよう出さなかった。その間にせいちゃんが卒業制作で『しばてん』を作って、『ちからたろう』でヒットした。

僕の本格的なデビューは1976年に『祇園祭』で賞を取ってからで、その頃太田さんとの出会いがあったんです。僕はせいちゃんと一緒に旅行に出ていて、イタリアのボローニャで太田さんに会った。その頃は『祇園祭』はまだ童心社で製版中で、本が出て無かった。太田さんとせいちゃんの二人の人気絵本作家を見ていたら、お金をどんどん使うので、冷や冷やしながら旅行していた。お金がどんどん無くなっていく恐怖しか覚えてません。穂積さんとも出会ったらしいんだけど、覚えてないんだよね(笑)。

穂積
ブラチスラバでお会いしました。賞を取って来られたんでしたよね。

征彦
当時、京都市から型絵染で賞金を貰ったんです。当時は賞金稼ぎで生活しとった(笑)。でも、その賞金で海外へ研修旅行をしないといけなかった。子どもが当時二人、奥さんもいて赤貧洗うがごとしで、できるだけお金を使わず持ち帰りたかったのに、二人がどんどん使う。

田島征三
70年代から90年代にかけて、西巻さんがちゃんとした話をしてくれたのに、ゆきちゃんが訳のわからん話を(笑)。前回のテープ起こしを読み返してみると、西巻さんと僕を中心に、お付き合いのあった人の話が多かったよね。赤羽末吉さんの話をするのを忘れていた。パーソナルなものではあるんだけど、例えば山中春雄さんが描かれた世界観に影響されて、長新太さんが絵本を描き始めた。1963年の長さんの『イソップのおはなし』を見て僕は1964年に『ふるやのもり』を描き、それを見た西巻さんが『ボタンのくに』を1968年に描かれた。こういう風につながっているんだよね。

西巻
絵本が日本の中で一つのジャンルとして育っていくときに、みんなバラバラに表現しようとしながら、他の人からエネルギーをもらって影響を与えあっている。私はそれまで、世の中に出回っている子どもの本に魅力を感じていなかったけれど、新しく出てきた長さんや征三さんの絵に魅力を感じたし、佐野洋子さんやいわむらかずおさんは、私に影響されて絵本作家になった。そういう人たちが、作家も出版社も出そろったのが70年代で、出版社の側でも商売として成り立つぞっていう機運があった。

そして80年代の絵本ブームがあるんですが、あれは恐ろしいものだったと思っています。私は年に三冊しか描かなかったのに、年に十冊以上、出版社に言われるままに描く人もいた。私には子どもを育てるという大義名分があって断れたんだけど、若い作家は断れなかったんですね。征三さんは一冊一冊、すごい話題作を出していましたね。絵についてすごく根源的に考えておられた。80年代は変な時代でした。そこには色々な問題があって、でも子どもたちにちゃんと届いて根付いた加古さんや山脇さんの絵本があった。私は自分の本がなんとか子どもに届いて定着してほしいと思っていた。『えのすきなねこさん』を描いたことで、絵を描くことについて深く考えたし、出した冊数は少なかったけど、中身としては生産的だったと思う。

穂積
征三さんは80年代の思い出はいかがですか。

征三
僕は75年までは十年ずっと突っ走ってきた。僕としては「成功した絵本作家」と言われることが嫌になった。それまでの画風を投げ捨てて、五年かかって『ほらいしころがおっこちたよ ね、わすれようよ』を描いた。西巻さんは評価してくれたけどほとんど世間では評価されなかった。その間に征彦がヒット作の『じごくのそうべえ』を出したから、読者からよく間違いの手紙が届いた。征三さん、たじまゆきひこにペンネームを変えたんですか?って(笑)。それでも僕は僕で『くさむら』『はたけうた』など、抽象的な絵本を描いて意気揚々としていた。

そのころ、太田さんはストレスで胃潰瘍になって血を吐かれていた。太田さんが釣りに行くのはストレス解消のためなんだよね。そのときは沼津で海釣りをしていて、伊豆で「やっぱた」って呼ばれている真っ黒な地獄の使者みたいな、食べるとおいしいんだけど気味の悪い魚を釣って、「ああ、やっぱり俺は駄目だな」って落ち込んでしまわれたそうです。それで、家族の方と高速道路で帰ってくる途中で玉突き事故を見てしまう。そこで吐血されて入院して、初期のガンだったんですね。僕はそのことを知らなかった。大八さんが苦しんでおられることを知らず、楽しく絵本を描いていた。こんなに身近な人だと思って、尊敬していたのに。入院されたことを知って唖然としました。

穂積
『紙とエンピツ』という太田さんの自伝、昨年七月に出版されたものですが、今日午後にBL出版の編集長の落合さんからもお話があります。この本にも初めて知るようなことがたくさん載っています。私も太田さんが当時、そんなに苦しんでおられたことを知りませんでした。

征三
苦しみを言わない人でしたね。僕は当時日の出村のごみ処分場反対運動で大騒ぎしていたけど、大八さんは常に紳士的だった。

穂積
太田さんの美学だと思います。大正生まれのダンディズム。

西巻
太田さんの話ですが、絵本作家の著作権というものをしっかり主張していこうということで、太田さんが「児童出版美術家連盟」を45年前に作られた。著者は印税をもらえたけど、絵描きからは買取で印税がもらえない時代が長く続いた。児童書出版の歴史の中で絵描きは十分なお金を貰えず、太田さんはそんな中で仕事をしてこられた。私は絵本を描き始めてからその団体に入れてもらい、そこで30年くらい理事をやっていた。太田さんはいつも理事会に出て、そのあとはお酒を飲みにいった。「太田大八 七軒参り」って言うんだけど、新宿ではしご酒をされながら、いつも若い人たちを連れて飲んでおられて。私たち女性会員は、太田さんをジーパンが似合う男性の賞に推薦したいと思っていた。かわいいお尻でピッピッピっと(笑)。さすがに90歳を過ぎてあの歩き方はされなくなった。「絵本学会」とか、組織を作るのが好きなんですよね。絵描きがどうやって世界と結びつくかってことを、いつも考えておられた。

私は絵描きの家に生まれて、画家の反社会性、非社会性に疑問を持っていた。それだとお金が入らないですよね。何とか絵を世界に届けて行かないと、生涯貧乏だと思っていた。それで社会と結びつく絵本というジャンルを選んだんだと思う。絵本を描けば、一万人、二万人の人に見てもらえるかもしれない。私はその思いで仕事をしてきて、うまく社会に参加することができたと思う。日本の絵本は、太田さんをはじめとした人たちが、美術を読者に届けることに熱心だったことによって、作られてきたんだと思います。

穂積
日本の絵本の水準の高さというのは、そのような意識から生まれたのかも知れませんね。日本の絵本は世界中で翻訳されていますが、60年代、70年代まではそんなことはなかった。今、中国や韓国へ行ったら日本の絵本がたくさん出版されています。

さて、ここで話題を変えたいと思います。先ほど田島征彦さんが『じごくのそうべえ』、大ベストセラーを出された。もちろん『祇園祭』『てんにのぼったなまず』など、素晴らしい絵本を描かれていますが、この本はシリーズで四冊目まで出ています。その時代に、型絵染作家でおられた征彦さんが作品を出されたことについてお話ください。

征彦
僕は「版画家」でもあるんです。「日本版画家協会」の会友には西巻さんもいたんですよ。僕はそれまでせいちゃんの絵本しか知らなかった。西巻さんについては、絵本も描く版画家として知っていたんですね。当時、朝日新聞の日曜版で切り絵の滝平二郎さんの後任で作品を作りませんか?って電話がかかってきた。そのときに担当の記者が最初、せいちゃんのところに電話してものすごく叱られたらしくて。『じごくのそうべえ』を描かれた田島先生ですよね?って言ったら電話バチンと切られたらしくて(笑)。

征三
それは否定しておかないといかんな。僕がその人に丁寧にゆきちゃんの電話番号を教えた。仕事を紹介してあげたの(笑)。そうでなきゃゆきちゃんに電話はかかってこない。

征彦
そんな風に、ずっと二人は間違えられていたんです。僕は当時京都の山奥で、2000年からは淡路島にいて、日本の絵本の歴史とは違うところに全然いるんだなあ、と思いながら、別に寂しくはないんだけど(笑)。もうちょっと二人の話を聞かせてもらおうと思います。

穂積
では征三さんから80年代の話ということで、ご自身の作品についてぜひ聞かせてください。

征三
『はたけのともだち』とか、ゆきちゃんからは畑をちゃんとやってないって評価があるんだけど、僕は畑をすごく愛しているんです。野菜たちと話をしたり、雑草とおしゃべりしたりしている。「はたけシリーズ」のアイディアはいっぱいあるんですよ。『はたけうた』ってのをかがくのともから出した。それで、シンガーソングライターの小室等さん、僕より三つ年下で大学の後輩なんですよ。あるコンサートで会って、作曲してくれないかっていったらものすごくいい歌を作ってくれた。一冊を長い歌にしてくれるのかと思ったら、一見開きごとに歌にしてくれた。短い歌がたくさんなんだけどすごくよくて、画廊でその歌を歌ってもらいながら、僕はその間等さんと話をしたり、障害者施設で作った紙に絵を描いたりしたらすごくうけちゃって。

やがてもっと大きなところでやろうと。小室さんが二時間歌って、僕は200号の絵を描くイベント。どういう訳か秋田県と沖縄県ではまだやってないんですが。100箇所以上でそういうことをやっていたら、芸能人になっちゃったんですよ(笑)。北海道ツアーとか、東北ツアー、九州ツアー、中国四国ツアーって、各地でコンサートをして酒盛りをして、家にほとんどいないもんだから、絵本のアイディアはたくさん出てくるんだけど絵にならないんだよね。それで絵本が描けなくなって(笑)。

穂積
関係者の皆さま、是非秋田でも「はたけうたコンサート」をよろしくお願いします。

征三
あれはね、2006年に高知県でやったのを最後にもうやってないんですよ。もう小室等の歌がすごくなりすぎて、僕が横で絵を描いてちゃいけない気がして。今は形を変えて、せとうちアートフェスティバルってのがあるんだけど、コンサートをやることになって。小室等が歌っているときは僕はおとなしくしていて、太田さんっていう素晴らしいバイオリニストと僕がジョイントするって形に変えたんですね。出演者が増えてギャラも増えたから、もうそうたくさんはできないですね(笑)。今朝、西巻さんと話したんだけど、やっぱり絵描きは家で絵を描かなきゃだめだよねって(笑)。

穂積
先ほど畑の話が出ましたけど、征彦さんは自給自足をされていたんですよね。

征彦
お米も全部作っていた。せいちゃんの野菜の絵本はあんまりやらなくてよかったと思う。百姓が見たらなんだこれはって。タマネギのオンタとメンタがごっちゃになっていたり、タマネギとお話はしているけど収穫はしてないんじゃないかって(笑)。ブロッコリーの花が咲いて、ブロッコリーの精と芽キャベツの精が星空の下、愛を語るというような話を講演でしているのを、僕は横で聞いてたことがあるんだけど、お客さんがみんなお百姓さんで、不思議そうな顔をしている。せいちゃんは畑の詩人かも知れないけど、そういう話は農業者にはしないほうがいいと思う(笑)。

征三
芽キャベツじゃなくてコールラビー。僕は日本で初めてコールラビーを育てたんです(笑)。知ってる人いますか?あ、一人いた。60年代の終わりからかな、茎を食べるキャベツ。他のカンラン類と混ざりやすいんですよ。どんどん変なコールラビーになって食べられなくなっちゃって。これは絵本に登場すると面白い感じなんだけど食用にはならなくて、タキイ種苗に種ありますかって電話したら「あなたはコールラビーを栽培されていたんですか?!我々は今研究中なんですが、何かご意見を下さい」って。作品の話を、西巻さんどうぞ(笑)。

西巻
話っていうのは脱線が一番面白いのよね。どうやって「戦後60年の絵本」っていう大きなくくりに戻したらいいのかな(笑)。このお二人は生活を楽しみながら、好きなように生きているのよね。私はいつも思うんだけど、ものを作る人間は好きなように生きないと。出版社に縛られ締め切りに縛られ、現代というものに押しつぶされそうになりながら仕事をしている人もいるんだけど、絵本っていうジャンルは、あんまりそういう人には向かないんじゃないかなって思うんです。

90年代を飛び越えて現在の話をしますね。私は絵本賞の審査を20年くらいやっていて、若い人の新しい作品を見る機会があるんです。2000年になる前に、日本の全体の絵本の世界の中では自由に生きる人が増えて、出版社の側でもお金だけじゃない、売れるためではなく人の心をつかまえるようないいイラストレーションを出したいって編集者が出てきたんですね。「えほんの杜」ってシリーズが出ていますよね。あそこにどんどん人が集まっている。

今活躍している荒井良二さんとか、楽しく表現する人が出てきて、豊かになったと思っています。彼らが活躍した十年があって、この五、六年は今の30代の作家が出てきて、酒井駒子さんとか、自分の世界をしっかり持った作家が出てきている。今回受賞した20代の女性とか、日常の中で見つけた好きなことを描いているんですよね。審査のときにあべ弘士さんが隣で「もうちょっと動物をよく見て描いてほしいな」って言ってたんだけど(笑)、彼女の表現者としての心が収められている。あまり無理しないで自然に、自分の心から出てきたものを表現できる世代が絵本業界に現れたんだなって感想を持っています。

私たちの世代は理屈っぽいんですよね。この兄弟はものすごく理屈っぽい人たちなんです(笑)。30代、40代のころに夜中の五時まで議論した記憶があるんだけど、そうやってなんとか絵本を論理化したいと考えていた。70歳のお婆さんになって今思うのは、やっぱり絵本は心から心へ伝わるものだと思う。作者の心から読者へ、幼い読者の純粋な心へ。だから、お百姓さんをやったりしている作家は貴重だと思う。やっぱり大事なものは心。そして、打ち込めるものがある私たちは幸せだと思うんです。読者の皆さんが私たちを支えていて、今日聞きにきている皆さんのおかげで私たちもこんな話ができて。私たちは皆さんのおかげでいられるんです。

穂積
芸術家は自由に生きることが、いい作品に繋がるということには同感です。ここにいるお二人のご兄弟もそうですね。自分らしく、好きなように生きるということは、決して楽をするということではなかったと思います。太田さんを見ていると、太田さんはあまり理屈っぽい人ではないですね。絵描きには著作権が必要だということで、40代くらいまではずっと戦っておられましたが。今ではWAVEの会議でもほとんど発言はされず、二時間くらい、じっと目をつむって人の話を聞いているんですね。意見をまとめるときに「いいんじゃないの?」って一言(笑)。太田さんの存在感、オーラのおかげで話がまとまるんですね。まだ時間があるので、三人から一言ずつ、お願いしたいと思います。

征彦
僕は染色と絵本と版画、という三つの世界にいて、やってることは型染で同じなんだけど、発信する先が違うんですね。それで、絵本の世界の人は染色の人たちを知らないし、染色の人は太田大八さんという立派な芸術家を知らない。色んな分野があって、同じ美術なのに互いの世界を知らない。僕は三つの世界を飛び回っていて、それが結構楽しいんですね。他にも色んな世界があるんだろうけど。明日は染色の世界で、祇園祭展を京都でやるので、その準備や打合せをやる。その次の日はポーランドと日本の版画の交流展をやる。あまり絵本の話ができなくてすみませんでした(笑)。

西巻
私は絵を描くという仕事で、自己表現をしながら社会と関わっていた。私たちの世代ではなかなかできなかったことなんだけど、女手一つで二人の子どもを育てて、一生活者として一通りのことをやってきました。畑まではやらないけど庭の草取りも楽しんで、週に何回かは飲みにいって、楽しく生きている生活が、今は気に入っています。捨ててきたものは多いですね。先ほど版画協会の話が出ましたけど、リトグラフで立て続けに賞を取ったりして、画商がうちに駆け込んできたりした。でも、この世界はあんまり長くないかなと思った。版画は刷っても百枚だけど、絵本は少なくても千冊、二千冊。で、版画を捨てて。そうやって色んなものを捨てて、50歳過ぎからは勉強をしようと、仏教を勉強したり、神道や古事記を勉強したり、楽しくやっています。あんまり世間には出て行かないけど、家の近辺で楽しいことがいくつかあって、その中で絵本も描ければいいかなと思っています。

征三
一応、80年代以降の絵本について僕なりに考えたこともあるんだけど、具体的に言うと飯野和好とか荒井良二とかあべ弘士とか面白い人がドドドっと出てきましたよね。片山健さんは全く違う画風で1960年代からやっていたのが、『おなかのすくさんぽ』あたりからは芸術的で、子どもたちにも受け入れられる優れた作家として活躍している。最近では長谷川義史さんとか、『ぼくがラーメンをたべてるとき』とか、すごいメッセージを持った絵本を作ったりして、すごい才能を持った人たちがどんどん出てきた。

今までやってきて、絵本という小さなカテゴリーとは関係なく、自分はこれをやるんだぞって思ったことを、やるしかないかなって思っているんですよね。去年、60代の終わりに、これだけはやるぞって思っていたことをやりとげました。廃校になった小学校を「舞台絵本」の美術館にして、たくさんの人に見せて喜んでもらえた。でも、これは絵本ではないかも知れませんね。「絵本と木の実の美術館」という名前から分かるように、僕は木の実など自然物を材料に作品を作っていて、そういうことを始めたのは1995年からなんですけど、その途中で処分場問題にかかりきりになってしまって、僕自身仕事もできなくなった時期もあるんだけど、ここにいるゆきひこ様がですね(笑)、「せいちゃん、そんなことやっても売れんし、作品も残らないしやめちょき」って。

その通りなんだけど、これからもうちょっと貧乏になることを考えながら、売れないものを作っていて、面白いからやっているんだけど、今は家中木の実だらけ、アトリエも木の実だらけで、僕の家は二階には女房から木の実を持ってこないように言われていたんだけど、もうしょうがない。皆さん想像できないでしょうけど、木の実にもし価値があるとしたら日本一の木の実長者になれるような、そんな生活です。これで作品がどれだけできるかって頭の中は燃えまくっていて。

こんなことしていたら死ぬぞって言われても止まらないんだよね。絵具は化学物質だけど、木の実っていうのは元生き物だから、人のことを引っ張るんだよね。作品を作っていて、暗くなったと思ったら夜が明けている。その間眠っていないし食べてないし、体重もどんどんなくなっていくし、それでも作るのが面白い。今パリに僕の大きな作品が行っているんだけど、向こうの企画者からこんなことは世界中誰もやってませんよって言われて。ほめ言葉なのか、あほらしくて誰もやらないのかわからないけど愉快ですよね。

80年代以降の日本は読み聞かせの全盛期で、長谷川義史くんみたいにストーリー性豊かでエンターテイメント性の高いものが受け入れられる。じゃあ俺もやってやろうじゃないかって。俺だって面白いものが作れるんだよって。今まであんまり面白くないものも作ったことがあるけど(笑)。『かまきりのカマーくんといなごのオヤツちゃん』って本がもうじき出ますけど、これは面白いです。子どもも喜ぶし、読む側が人生について考えるようなものを作りました。ぜひ読み聞かせにも使ってください。
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2010年07月23日

WAVE in にしのみや その3

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2010年5月23日に開かれた「WAVE in にしのみや」日韓絵本シンポジウムの様子です。
パネリストの一人である編集者ハム・キマンさんが韓国の雑誌『出版文化』7月号に寄稿された文章の日本語訳を元に、当日の様子を紹介いたします。


―「WAVE in にしのみや」に参加して―

ハム・キマン(編集者)


 日本の「こどもの本WAVE」の招待により「WAVE in にしのみや」というイベントに参加した。このイベントでは「こどもの本WAVE」が主催するもので、「韓国の民画と絵本原画展」を開催中の兵庫県西宮市立大谷記念美術館の後援によって、韓国と日本の絵本作家と絵本編集者が集められ、ワークショップ(2010年5月22日)とシンポジウム(5月23日)が開かれた。

 韓国からは2000年の「オリニの世界から―韓国絵本原画展」と、今回の「韓国の民画と絵本原画展」双方の出品絵本作家であるイ・オクベ先生、クォン・ユンドク先生と、絵本編集者として長年日韓交流の実務を推進してきたパク・ウンドク編集長と、筆者がパネリストとして参席した。日本からは絵本作家の和歌山静子先生、浜田桂子先生と、絵本編集者の池田陽一編集長、絵本研究家・翻訳者の大竹聖美さんがパネリストとして参加した。

 大谷記念美術館では「韓国の民画と絵本の出会い」というテーマで「韓国の民画と絵本原画展」が4月3日から5月23日まで盛況のうちに開催されていた。これは過去100年に描かれた、韓国固有のユーモアにあふれた民画と、変化する現在の日常的視覚芸術文化を共に見ることができるよう企画された展覧会だが、2000年に東京の国際こども図書館開館記念「オリニの世界から―韓国絵本原画展」からちょうど10年の節目に開催されたものであり、今回の展示ではさらに韓国絵本の第二の跳躍を紹介して好評を博し、さらに今後の10年間を期待させてくれる物だった。美術館は豪商・大谷氏の邸宅を改築したものだが、大規模に設計された内部はもちろんのこと、池や花々がよく調和した日本式庭園が素晴らしく、美術鑑賞とワークショップ、シンポジウム、茶道、休息ができるよい空間だった。

 「WAVE in にしのみや」では、パネリストと一般参加者が息を合わせ、長年の知己に出会ったように一体となり、楽しくやりがいのある時間を過ごすことができた。ワークショップでは日韓の作家が共同で民画と絵本を元にした創作指導をおこない、老若男女の区別なく楽しむことができた。シンポジウムでは「こどもの本WAVE」代表の挨拶に続いて、日韓の絵本作家と編集者が「韓国の絵本、日本の絵本」という大きなテーマの下に自由に発言し、これを土台として討論と質疑応答をしたが、聴衆の真摯な姿とレベルの高い質問に感動を覚えた。日韓併合100年の年を迎え、謝罪と反省の雰囲気が高まり、在日同胞と朝鮮学校の生徒達も参加し、感動的な出会いの場となった。イベントが終わり参加作家たちのサイン会が開かれたが、聴衆が長い列に並んで順番を待ち、楽しそうに作家たちと言葉を交わす姿が印象的だった。

 6月には秋田県横手市で「WAVE in よこて」が開かれ、11月には太田大八先生の故郷である長崎でもWAVEの大きなイベントがあるという。今後も日韓両国の出版文化交流が活発におこなわれることを期待し、文を締めくくる。

以下に、パネリストによる発言の要約を紹介する。

*ハム・キマン(韓国絵本編集者、本稿筆者)
 現代韓国絵本のはじまりは、大韓帝国時代の日本留学によって刺激を受けたチェ・ナムソンの「少年」と、パン・ジョンファンの「オリニ」「愛の贈り物」がきっかけであり、これらの幼い読者がその後、韓国児童文学を代表する作家たちとなっていった。その後、独立と朝鮮戦争を経てゆっくりと成長してきたが、著作権法が整備された80年代後半に入ってようやく、絵本に対する正しい理解が生まれた。この頃日本のACCU(ユネスコアジア太平洋文化センター)を通じた絵本作家と編集者の研修が実を結び、韓国人作家による野間コンクールおよびBIB受賞をはじめ、若い作家たちによる素晴らしい作品が次々と海外で受賞するようになった。また、2000年に東京で「オリニの世界から―韓国絵本原画展」が開かれ、日本進出への道が開かれた。一方で、正式な著作権契約を結んで日本の絵本を輸入してきたハンリム出版社と福音館書店は1989年に、大韓出版文化会館で絵本の展示と「絵本とは何か」というテーマでシンポジウムを開き、大きな反響を引き起こし、反日感情の高い壁を粘り強い努力で克服してきた。
 2000年と2010年に、わが国の絵本の原画展を日本で開いたことが両国の絵本をめぐる交流のきっかけとなったのであれば、我々も日本のよい絵本と原画を鑑賞することができる機会を作り、我々の絵本のレベルを引き上げるきっかけとしなければならない。日本には絵本のノーベル賞とも言うことができる「国際アンデルセン賞」の受賞作家が数名おり、絵本作家による個人美術館もいくつかある一方で、わが国にはそれらが一つもなく、よい絵本の土壌を作るために最善を尽くさなければならないと思う。私たちもWAVEの運動に学ぶべきではないかと考えている。

*和歌山静子(絵本作家、こどもの本WAVE前代表)
 1989年に韓国で初めて見た絵本は、いわむらかずおさんの作品の海賊版でした。それから10年後、2000年の「オリニの世界から―韓国絵本原画展」を見て、驚くべき発展に敬意を表しました。それからさらに10年、今回の展覧会で紹介された絵本に魅了され、今後の10年にも大きく期待しています。植民地戦争と太平洋戦争の加害者である日本と被害者である韓国との絵本をめぐる交流は、人間と社会、国家の壁を打ちこわすものとして、ホットで新鮮な話題を生み続けるでしょう。私自身も、韓国、中国、日本の子どもたちがよい絵本を共に見ることができるように、「アジア絵本ライブラリー」の活動を活性化させていきたいと考えています。

*イ・オクベ(絵本作家)
 2000年台に入ってから韓国の絵本が日本へ本格的に紹介され、原画展もまたレベルの高い美術館でいくつか開かれています。日本では韓国の絵本に対する関心がとても高く、読者たちの真剣さと高い好奇心を、今回の日本訪問でも感じることができました。これこそが「絵本大国」日本がもつ底力だと感じています。韓国の美術館では絵本の原画展がほとんど開かれていない現状ではありますが、今後は韓国の絵本はもちろん、日本や他の国の絵本原画展が韓国の美術館で開かれることを期待しています。
 私の人生には二つの大きな事件がありました。一つは30年前の光州事件で、その事件の加害者はいまだに犠牲者たちに謝罪をしていません。もう一つは私自身が父親となったことでした。これらの経験を踏まえて、私は子どもたちのための絵本作りに関わるようになったのです。一冊の絵本が生み出す感動の波が、国と国の壁を越えて行く。そのような仕事につけたことを誇りに感じています。私は「平和絵本シリーズ」として祖国の分断を描いた『DMZ―非武装地帯』を完成させました。これは日本でも出版される予定です。

*浜田桂子(絵本作家)
 日韓併合100周年を迎え、いまだに植民統治に対する真摯な謝罪がないことは惜しまれますが、このような環境下でも絵本の交流を通じて共に考え共に悩みながら、国の間にある壁を壊そうという趣旨で2006年に、今回参加されたイ・オクベさん、クォン・ユンドクさん、和歌山静子さんをはじめ、高い意識を持つ日中韓の作家たちに、「平和絵本シリーズ」の制作を呼びかけました。数多くの打合せを経て完成した絵本は、今後韓国、日本、中国でそれぞれ出版される予定です。ご期待ください。

*クォン・ユンドク(絵本作家)
 1995年に描いた最初の絵本『マンヒの家』に出てくるマンヒは私の息子で、息子が5歳のときの話ですが、彼はもう大学2年生になりました。今の「マンヒの家」には、マンヒとお父さん、そして猫と私が一緒にすんでいます。マンヒとお父さんはいつも夜遅く家に帰ってくるので私は一日中猫とお話しています。猫を見ていると猫の中に私の姿が見えてきて、「ああ、人間は猫のような動物から進化したんだなあ!」と感心します。
 初期の私の絵本は家の中を描いたものでしたが、今回出品した『仕事と道具』は、町の暮らしを描いた絵本です。そして、今年私が完成させた「平和絵本シリーズ」の『花ばあさん(コッハルモニ)』は、日本軍による「従軍慰安婦」を扱った、社会的な絵本です。私は成長して、ようやく家の外へ出てきたのだと言えます。これからももっと、社会的な絵本を作りたいと思っています。絵本は出版されると私の手を離れて生命が宿り、世の中を旅して読者と出会うものだと考えています。私の絵本が日本の皆さんに出会えたことを感謝しています。

*池田陽一(絵本編集者)
 創立55周年となる童心社では、絵本と共に現代の出版文化とは相容れない「紙芝居」を30年余り作り続け、粘り強く普及させてきました。今日の出版界では、発展しつつある電子出版によって、紙の本の出版流通が少なくなっていく一方で、電子出版物を出版社ではなく流通会社が直接配信することにより、出版社も編集者も必要なくなるのではないかと危惧されています。絵本も必ず影響を受けるでしょう。そんな時代にこそ、私たちは原点に立ち返り、よい物を作らなければなりません。絵本や紙芝居が、電子出版には担うことのできない「親と子、人と人をつなげるコミュニケーションのツール」として受け継がれていくことを期待しています。

*パク・ウンドク(絵本編集者)
 近年の韓国では、数年前に比べよい絵本が出てこないと言われています。その理由は、出版社が「よい本」よりも新しくて面白い「よく売れる本」を選び、作家が時間をかけてよい作品を作ることを度外視する傾向があるためであり、さらにはインターネット書店の普及による、無限の価格競争に打ち勝つための本作りに熱中しているためです。一編集者として、そのような状況の中でもよい絵本作りに挑戦し続けていくことが使命であると考えています。

*大竹聖美(絵本研究家、翻訳家)
 韓国の絵本が日本へ大きく進出するようになったきっかけは、ハムさんも言われたように2000年に開かれた「オリニの世界から―韓国絵本原画展」であったと言えます。そして、2002年ワールドカップ共同開催と、日韓交流推進の友好的な雰囲気の中で、2002年の平凡社による韓国絵本シリーズ、2004年のアートンによる「韓国絵本10冊」などの企画をはじめ、現在は年間におよそ10冊ずつ翻訳出版されています。個人的には民画の雰囲気を生かした韓国的な絵本が多く出版されることを願っていますが、近年は無国籍的な、普遍的な絵本が多く出版されています。これも文化であり、一つの進歩であるといえるのかも知れません。
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WAVE in にしのみや その2

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民画作家、姜孝薇さんによる「文字図を描こう」ワークショップの様子です。
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WAVE in にしのみや その1

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5月22〜23日におこなわれた、「WAVE in にしのみや」の様子です。
こちらは22日の絵本作家・和歌山静子さんの「紙コップで王さまを作ろう」ワークショップの様子です。
手前に写っていらっしゃるのは、韓国からいらっしゃっている、翌日のシンポジウムのパネリスト4人です。
左から、絵本作家のクォン・ユンドクさん、編集者のパク・ウンドクさん、絵本作家のイ・オクベさん、編集者のハム・キマンさんです。
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WAVE in はまだ リポート

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遅ればせながら、2009年11月22日に行われた「WAVE in はまだ」でのシンポジウムの、リポートです。


2009年11月22日(日)
浜田市世界こども美術館3F多目的ホールにて
「日本の絵本・戦後60年の歩み(パート1)」

出演者(左から)
田島征彦先生、西巻茅子先生、田島征三先生、太田大八先生
司会:穂積保(こどもの本WAVE代表)

司会・穂積
太田先生が絵本作家になられたきっかけは?

太田大八
絵本を特に目指していたわけではなかったのですが、美術学校で絵本に興味があって、卒業制作に絵本をテーマに選びました。戦争中の話で、象に乗って帰ってきた兵隊の絵本を作りました。そのときから今日までいい仕事をしながら飯が食えて、満足しています。

穂積
戦後の絵本の流れについてですが、まずは田島征三さんから話してください。

田島征三
『こどものとも50年の歩み』という本があります。三年前に出たものですが、松居直さんが子どもたちには物語が大切だと、質の高い絵本を出すために、それまでの童画家にもすばらしい方はいらっしゃったのですが、絵本としては一つの物語にはなっていないということで、1956年4月に「月刊・こどものとも」が発刊されました。それが日本の絵本の歴史、発展を導いたというか、指導した。
記念すべき第一号は堀文子さんの『ビップとちょうちょ』、第二号は『セロ弾きのゴーシュ』、茂田井武さんが絵を描いた。初期には質の高い絵本が数多く出版されていて、太田さんも2冊描いています。童画会の会員はどれくらいおられたんですか?

太田
150人くらいかな。その当時は、出版社が出す子どもの本はかわいらしい色彩を使わなければならなかった。松居さんが初めて色彩を抑えた絵本を作った。

征三
それまでは子ども受けをする絵を描くのが当然でした。「こどものとも」だけが発展を導いたわけではないけど、50年代の終わりから60年代の初めにかけては、やはり「こどものとも」だったと思います。西巻さんがこぐま社から『わたしのワンピース』を出したのは60年代の終わりでしたよね?

西巻茅子
わたしは67年に『ボタンのくに』、最初の絵本を出しました。今でも出ています。私は征三さんと同世代で、戦後の絵本がない時代を過ごしました。外国の絵本を見て絵本があることを知ったのです。長新太さんの絵本を見たのは65年ころだったかな。こういう絵を描ける子どもの本の世界はいいなと思った。それからしばらくして征三さんの『ふるやのもり』を見た。
それまでも子どもの本はたくさんあったけど、日本のイラストには関心がなかったんです。

征三
長新太さんの絵には僕もおどろいた。こういう絵がいいなら俺の絵だっていいだろって(笑)。絵本の歴史であまり語られてないんだけど、こどものとも第4号で山中春雄さん。長さんが「こういう猟奇的な絵が使われてもいいんだな」って思って、絵本を始められた。山中さん、長さん、西巻さん、とこういうつながりがあるんですね。

穂積
西巻さんも田島さんお二人も同世代ですが、征三さんが最初に絵本を出されて次が西巻さん、征彦さんが数年遅れているんですよね。
ご自分の作品が出されたころの状況を聞かせてください。

田島征彦
僕はあんまり戦後60年の絵本の歴史には関係ないんで僕なりに。僕の先生の稲垣先生が豆本の課題を出した。絵本を作る課題があった。僕は学校さぼって芝居の背景ばかり作ってたんだけど、共同制作で教室にひっぱりこまれて仕方なしに作ったらものすごく面白い。スケッチして型染めをするのとは違うことがわかった。『アラジンと魔法のランプ』という絵本だった。アラジンが穴の中に落ちる場面。アラジンの気持ちを考えて作った。絵本は心を描く作業で、これはとんでもない世界ではないかと。僕は実は3人の中で一番早く絵本を作ったんです(笑)
それから自費出版で絵本を作ったら売れなくて、せいちゃんにこの本売ってくれないかって東京まで夜行で頼みにいっても一冊も売れなくて、何しに東京にいったんやろって(笑)。それが二人で絵本について話した最初やったと思う。

征三
ちょっとは売れたけどな。

征彦
金くれなかったんやろな(笑)

征三
僕もそれに刺激されて一年後に手刷りで『しばてん』を62年に作った。長さんのイソップは63年だね。長さんは1957年に『がんばれさるのサランくん』を出したのが最初。その後、画風が変わったんですよ。おもしろいんだけど、ちょっとまとまりのない感じ。さすがの松居さんも1年以上お蔵入りさせた。

穂積
長さんの初期の作品って描きなおしされてるんですよね。同じテーマで何冊も。『がんばれさるのさらんくん』とか『おしゃべりなたまごやき』などですけど。

西巻
それまでも長さんはイラストレーションの仕事はされてましたよね。文春の漫画読本に毎月描いていてすごく面白かった。女の人から逃げ回る男がテーマ。私は漫画家の長さんを知っていて、イラストレーターの長さんを知っていて、こういう人が絵本の世界で活躍するだろうと思っていた。私が出版社に長さんと征三さんの絵を持っていっても、みんな「このような絵は子どもにわからない」と言われてしまっていた。1960年代では異端だった。
でも、世界の美術の歴史から見れば20世紀の美術とリンクしているのはこちらですよね。フランスの近代絵画を学生時代に浴びるように見ていた私としては、二人の絵はすごい絵に見えた。当時の出版社の人たちは、文章はわかっても絵はわからなかった。

穂積
そこに日本の絵本の発達の特徴があると思います。文に重きを置いて、そこに挿絵をつけるのが絵本だ、という固定観念。絵本は戦前からもあったけれど絵に連続性がまったくない。それに対して物語絵本は絵とストーリーが一致する画期的なものだった。50年代から日本の出版社が復活してきて、60年代に勇気ある作家が現れた。それまで出版社の人たちは海外に行くこともできず、65年頃からようやく海外のブックフェアに行くことができるようになった。60年代はアメリカ絵本の黄金時代。僕が学生時代に、ライトパブリシティという広告代理店がセンダックの事務所をまねて作られた。堀内誠一さんも広告の仕事をしながら絵本を作った。
60年代があってこそ70年代の日本の絵本の黄金期があると思います。本日出演の方々も、60年代が大きな転機になったんだと思います。今回の展覧会の作家の皆さんは当時20代で、すごい人たちがたくさんデビューした。僕はそのデビューする時代に偶然居合わせることができた。もう少し60年代のことについてお話いただけないでしょうか。

征三
60年代から70年代にかけて、太田さんの美術著作権問題の提起が大きな転機となった。60年代には印税が一銭も入らなかった。これはなんとかしないとって思っていたら、太田さんって方がいて相談しなさいといわれた。それが最初に会うきっかけでした。太田さんの著作権会議に呼ばれていったら武井武雄さんに「学生は帰りなさい!」って(笑)。
著作権を獲得するための努力、普段は温和な太田さんが火の玉になって戦ってくれた。そのことがあって70年代が。一人一人が戦わなければならないんです。僕も出版社に通いました。そのとき瀬川康夫さんが「童美連にまかせとけばいいんだよ」っていうのを無理やり引っ張り出したら、出版社の重役の言葉につかみかからんばかりにおこっちゃって、重役も恐れをなして「印税にしよう」って(笑)。

穂積
童美連の話が出ました。西巻さんも理事長をなさったし、初代の理事長は太田さんです。昔は画家が印税をもらえなかった。著作権を確立するため奔走したのが太田さんでした。70年代の黄金時代は外国の刺激もあったけれど、征三さんがおっしゃったように、ロイヤリティを継続してもらえる状況が作られたのは大きかったです。生活のために描きつづけなければならない状況が改善され、質を高めることができた。

太田
著作権獲得運動は、最初は武井さんと日本書籍出版協会に行ったんです。美術家にも著作権を、と。そのとき書籍協会の弁護士から「包括的著作権は出版社にある」って蹴っ飛ばされて。教科書についても絵描きには印税がなかった。そこで教科書協会に三年くらい談判に通った。向こうも弁護士をつけて、こちらも弁護士をつけて三年くらい。じゃあ、裁判しましょうと言ったら、結局向こうの弁護士が著作権法の起草者で自分たちが不利だとわかっていたんですね。示談にしようと。僕が百万円取りにいった。それを一般図書に広げるための団体を作る基金としようと。

絵本っていうのは人間形成を目的とするもので、絵や文から感性を学ぶことができると思います。僕は絵本の仕事を伝えながら、絵本っていうのは子どもたちの感性にしみこんで、大きくなっても残る大切なメディアであると考えています。コミュニケーションアート、伝達するアートとして考えています。純粋絵画の作家には積極的なコミュニケーションの姿勢がない。自分を作品の上に洗い出すのが純粋絵画ですが、コミュニケーションアートは対象に伝えようとするアートで、子どもの感性に伝える大切な仕事。立派な本を作るためには高度な芸術性が必要だと考えながら、今でも作り続けています。

穂積
著作権から絵本作りまで幅広く語っていただきましたが、ここで三人の先生方に、当時のことについて言い忘れたことがあったら、一言ずつお願いします。

征三
1960年代後半から70年代に僕はまだひっかかっているんだけど、僕は1962年に作った手刷りの『しばてん』がまだ残っていて、後に小峰書店から偕成社に移った編集者が、この本を出してくれた。これが僕にとって第二の出発点になった。穂積さんがおっしゃったように60年代は文学者の文に絵をつける時代だった。

西巻
昔は絵描きは文章を書けないと思われていた。『ボタンのくに』で文章を書く方がこちらの希望にあわせてくれてから、大体わかるようになって『わたしのワンピース』を作った。

征三
僕も自分で物語を作りたかった。そこで『しばてん』を出した。10%の印税で。当時偕成社は8%だったんだけど、10%で出すよう交渉して、三年間はこの印税で『ふきまんぶく』の制作に集中することができた。当時僕は自給自足を目指していてお米以外は自分で作っていた。それに『しばてん』と『ちからたろう』の印税のおかげで『ふきまんぶく』を完成させることができた。でも、太田さんとの付き合いで他の人のためにも戦わないといけないと思って。遠藤てるよさんが講談社から絵本を出すとき印税制を主張したら突っぱねられて、僕はそのことをあちこちに書きまくった。そしたら『ふきまんぶく』が講談社出版賞に選ばれて。どうしようかなって(笑)。そしたら次の日かな。長さんから速達がきて。「田島くん。人を食ったように生きるのが一番いいんだよ」って。それで、受賞者の挨拶で。茂田井さんがどんな死に方をされたかって話をしたんです。茂田井さんは売れっ子だったのに印税が入らなかったから毎日働かなければならなかった。奥さんが生命保険の外交に出ていた間に喘息の発作を起こして亡くなられた。もし講談社から印税が入っていればどれだけよい絵本を描けたかって話をしたら、会場にはうけたんですよ。講談社の重役は怖い顔でこっちを見てる。
今は講談社も著作権を認めています。でもそういう戦いがあったから講談社も小学館も認めてくれたんだと思います。

もう一つ70年代に影響を与えたのは、大八さんが日本イラストレーター会議を開いていて、「月刊絵本」がすばる書房から出ていた。「日本児童文学」って雑誌が絵本を取り上げたらものすごく売れて、絵本の月刊誌が生まれたんです。これが第一次絵本ブームを主導した。この月刊絵本で『はせがわくんきらいや』が月刊絵本賞を受賞して多くの人に影響を与えた。

西巻
一言付け加えさせてください。田島さんがおっしゃったのも一つの側面ですが、お母さんの読み聞かせの運動、これがもうひとつの側面だと思います。こつこつと家庭文庫を作る家庭が増えたのが70年代、子どもと絵本を結びつける人が現れた。出版社は絵本を世の中に押し出してくれた。田島さんは芸術家の使命で突っ走っていた。私は田島さんに「絵本は子どものためだけのものじゃないだろ!」って怒られていた(笑)。
加古里子さんが当時すごく子どもたちに人気があって、でも一見下手な絵ですよね(笑)。私はそれを研究していた。子どもたちによる評価が生まれてきたのが私にとってラッキーで、私が幼い子どもたちのために描いた本が子どもたちに評価してもらえて、ずっと作品を作り続けることができた。

穂積
『わたしのワンピース」は、もう三代くらいに読みつがれている絵本ですよね。それくらい絵本は寿命が長い。ロングセラーになることはとても大切だと思います。『じごくのそうべえ』のように。

征彦
僕は76年に『祇園祭』を描いてデビューしているのであんまり絵本作家受難の時代を生きていないんだけど、一つ受難がありました。この本がいろんな賞の候補になった。小学館絵画賞の候補になったんだけど「子どもの本じゃない」って落とされました。しばらくして『火の笛』を出した。これはまったく子どもの本じゃない。応仁の乱で途絶えた祇園祭を町人と下層の人たちが組んで復興させるお話で、悲恋の話なんです。それなのに受賞した(笑)。
僕は本当に生活に苦労していたって話なんですが、子ども用の風邪薬を買いに来てくれた人に渡す絵本を出さないかって話がきて。僕は当然反対したんだけど家計が許さなかった(笑)。それでかなりのお金が入ったんです。『からすじぞう』って絵本、今はくもん出版からでているんだけど、当時は黒い地に黒い字書くようないい加減な作りで。
その話を小学館の受賞のスピーチに使おうとしたら怒られたっていうばかばかしい話で(笑)。

穂積
戦後60年の苦労の話ではありますね(笑)。いずれこの座談会のパート2をやりましょう。80年代のことも。話には出ていないんですが、太田さんのもう一人の盟友、堀内誠一さんがいらっしゃった。堀内さん、長さん、太田さんはいつでも一緒で、一緒に飲み、遊んでおられた。堀内さんは途中からパリに行かれた。今日の午後話をされるBL出版の落合編集長も当時パリに住んでいて、何かしら重なっている。太田さん、堀内さんについて一言お願いします。

太田
堀内さんが平凡出版(現・マガジンハウス)の仕事をしていた頃、堀内さんの事務所で娘を働かせてもらったことがあるんです。堀内さんと長さんと僕は新宿二丁目のバーでよく会っていて、あの頃は明るくなるまで飲んでいた。堀内さんがパリに行ってから、僕らはパリで会ってたんだけど、安いホテルを用意してくれたり、中華料理屋を教えてくれたり、面倒見のいい方だった。

穂積
僕も三人の皆さんとは月に何度か朝まで付き合いました。大体夜10時くらいに電話がかかってきて新宿二丁目に呼び出されるんです。考えてみたら60歳くらいでしょっちゅう朝まで飲んでらしたんですよね。私にはとてもできません。堀内さんは雑誌の神様として、たくさんの今でも売れている雑誌を作っていて、一方で絵本作家の面も持っていて、僕は学生時代のアパートが同じだったスズキコージさんを通じて堀内さんにも面識があってお世話してもらった。僕にとっての恩人でもあります。
さて、90年代や2000年など、最近の絵本の話が出なかったんですが、一応本日はパート1ということにして、パート2はいつになるかわからないんですが終わらせていただきます。

征三
最後に一言。いろいろ資料を持ってきたんですが、木葉井悦子さんの『かぼちゃありがとう』。すごく人気があった人ではないけど、芸術性の高い仕事をされました。あと、君平ちゃんの絵本も。1985年に亡くなられた。僕と征彦はもちろん同じ年の同じ日生まれなんだけど、君平ちゃんも同じ年の同じ日生まれ。堀内さんと顔が似ていて、堀内さんと同じ年に亡くなった。
「PeeBoo」って雑誌があって、大八さんが編集された。「月刊絵本」は出版社が別の事業で失敗して廃刊になって、何年か後に「PeeBoo」が創刊された。この会を主催しているのはこどもの本WAVEって団体ですが、これも大八さんが提唱されて、絵本をたくさんの人に見てもらおうとがんばってくれている。僕はあんまり協力できていなくて、さぼってばかりで申し訳ないんだけど(笑)。



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2010年05月20日

WAVE in よこてが開催されます

wave_in_yokote.pdf

WAVE in よこてが、6月5日、6日に開催されます。

日時:2010年6月5日(土)、6日(日)の2日間
会場:秋田県立近代美術館(横手市) 定員:各回120人ほど

■第1日目 6月5日(土)受付開始12時30分
12時50分〜13時 こどもの本WAVE代表からのごあいさつ
[講演会] イベント番号【WAVE1-1】
13時〜14時30分 小野明(編集者)「太田大八とえほんの仲間たち」
[講演会] イベント番号【WAVE1-2】
14時40分〜16時10分 田島征三(絵本作家)「激しく創った!!僕の絵本」

■第2日目 6月6日(日)受付開始9時30分
9時50分〜10時 こどもの本WAVE代表からのごあいさつ
[シンポジウム] イベント番号【WAVE2-1】
10時〜11時30分「日本の絵本 戦後60年の歩み」
出演予定者:田島征三(絵本作家)、西巻茅子(絵本作家)、田島征彦(染色家、絵本作家)
司会:穂積保(こどもの本WAVE代表) ※敬称略、順不同。
[講演会] イベント番号【WAVE2-2】
13時30分〜15時 田島征彦「元祖 落語の絵本」
[講演会] イベント番号【WAVE2-3】
15時〜16時 落合直也(編集者)「『紙とエンピツ』を編集して」

●参加費:無料
●参加対象:中学生以上の方(小学生以下は保護者同伴)
◎別途入館料が必要となります。

【お問い合わせ・お申し込み先】
秋田県立近代美術館 「WAVE in よこて」係
〒013-0064 秋田県横手市赤坂字富ヶ沢62-46
TEL:0182-33-8855
http://www.pref.akita.jp/gakusyu/public_html/

【お申込み受付期間】6月4日(金)まで。

ご参加希望のイベントを下記までお電話でご応募ください。
(複数のイベントへのご参加も歓迎です)

お申込み電話番号 0182-33-8855
秋田県立近代美術館「WAVE in よこて」係

※参加者全員のお名前と年齢(学年)、電話番号をお伝えください。
※定員になり次第、応募を締め切らせていただきます。
※都合により内容等が変更になることがありますので、予めご了承ください。
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2010年05月13日

WAVE in にしのみやが開催されます

wave in nishinomiya.pdf

日時:2010年5月22日、23日(日)の2日間
会場:西宮市大谷記念美術館 講堂

■第1日目 5月22日(土)受付開始10時
イベント番号【WAVE1】
[こどもの本WAVEからのごあいさつ]
10時20分〜10時30分 こどもの本WAVE代表より
[ワークショップ] 定員:各回60人
午前の部:10時30分〜12時
午後の部:1時30分〜3時
「日韓絵本作家らによる子どもと大人のためのワークショップ」
日本と韓国の作家が、民画や絵本作品の創作指導をいたします。
予定講師:カン・ヒョミ(民画・漆絵画家)、和歌山静子(絵本作家)ほか。

■第2日目 5月23日(日)受付開始10時
イベント番号【WAVE2】
[こどもの本WAVEからのごあいさつ]
10時20分〜10時30分 こどもの本WAVE代表より
[シンポジウム] 定員:各回100人
午前の部:10時30分〜12時
午後の部:1時30分〜3時
「日本の絵本、韓国の絵本」
日韓絵本作家らによるシンポジウム
出演予定者:イ・オクベ(絵本作家)、クォン・ユンドク(絵本作家)、ハム・ギマン(絵本編集者)、パク・ウンドク(絵本編集者)。(以上、韓国)
和歌山静子(絵本作家)、浜田桂子(絵本作家)、大竹聖美(翻訳者)、池田陽一(絵本編集者)。(以上、日本)
司会:穂積保(こどもの本WAVE代表) ※敬称略、順不同。

●参加費:無料
●参加対象:中学生以上の方(小学生以下は保護者同伴)
◎別途入館料が必要となります。

【お問い合わせ・お申し込み先】
西宮市大谷記念美術館
〒662-0952 兵庫県西宮市中浜町4-38
TEL:0798-33-0164 テレホンガイド:0798-22-3456(900)
http://www9.ocn.ne.jp/~otanimus/

【お申込み受付期間】5月10日(月)より21日(金)まで。
イベント番号【WAVE1】午前の部、午後の部
イベント番号【WAVE2】午前の部、午後の部

ご参加希望のイベントを下記までお電話でご応募ください。
(午前・午後をお伝えください。両日共のご参加も歓迎です)

お申込み電話番号 0798-33-0164
西宮市大谷記念美術館「WAVE in にしのみや」係

※参加者全員のお名前と年齢(学年)、電話番号をお伝えください。
※定員になり次第、応募を締め切らせていただきます。
※都合により内容等が変更になることがありますので、予めご了承ください。
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2009年09月08日

WAVEinびわこレポートB

【西巻茅子さん講演会】
日時 2009年7月24日 15:10〜16:40

・私は40年、絵本作家として描き続けています。
・昭和21年に小学校に入って、調度その時代は子ども達に良い絵本を!という風潮で、その中で過ごせたのがとても良かったです。
・父親が絵描きで、「絵描き=貧乏」だと思っていたから、絵描きにはなりたくなかった。代わりにデザイナーになろうと思いました。
・でも、どうやってデザイナーになった良いのか分からなかったから、最初は子どものアトリエを主催したんです。絵本を描く原点になったのは、子どもの描く絵なんです。
・本に関わる仕事をしたいと思ったのは田島征三さんの『ちからたろう』と出会ってから。
・子どもの本の世界で仕事をしていけば、貧乏からは脱却できると思ったんです。
・大学を出て、リトグラフを教えてもらいしばらくそのタッチで描いていました。
・そうしたら最初の個展で絵を評価しえくれた人がこぐま社の方で、ちょうどリトグラフで出版していたから、描いてみないかといわれて。
・絵本は何かも分からず、こぐま社にあった、海外の名作絵本を読んで勉強して、処女作『ボタンのくに』を作りました。
・私が絵本の世界に入った1970年代は今のロングセラーと呼ばれるものが沢山出た時代です。
・その中で、レオ・レオニの『あおくんときいろちゃん』が一番面白いと思いました。
・『ボタンの国』の後に、新しいおはなしを…と頼まれて、文字がなくても良い絵本を作ろうと思ったんです。それが『私のワンピース』でした。
・『私のワンピース』は良く見ると○△□のパーツでできているんです。私、デザイン科出身で、パーツを描くのに慣れていたので、それをメインに作りました。
・でも、最初こぐま社の反応はよくなくて、こぐま社の精神に反するとまで言われました。
・そのころ、子どもが生まれて、子どもの絵本を読む力に改めて感動しました。
・息子は長新太さんと、かこさとしさんの絵本が大好きでした。
・『あいうえおはよう』は最初に「あいうえおはよう かきくけこぶた」というフレーズが生まれて、あっという間に文章が書きあがってしまったんです。それをリトグラフにしてしまうとあまりにも簡単にできてしまうので、一番時間のかかる方法で絵を描こうと思いました。それが、布を使った刺繍になったんです。
・そうしたら、お手伝いに来ていた女性の方が、「あいうえおの次は、数字ですよね」っていって、じゃあ『ぼくたち1ばんすきなもの』ができました。
・今、子どもの心が壊れているといわれているけれど、心をこめて作れば意志が伝わることがあるし、心が行きかうことがある。心と心を繋ぐ仕事をするのが表現者だとおもいます。
・経済が複雑になったのは「言葉」があったから。絵や音楽は心のコミュニケーション。心の重要さを伝えたいけれど、自然に伝わるようにするのはすごく難しいこと。
・『えのすきなねこさん』…自然にできてしまった。描いてみて、やっぱり自分は絵描きなんだと思った一冊です。


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WAVEinびわこレポートA

【小野明さん講演会】
日時 2009年7月24日13:30〜15:00

・小野さんが絵本と接したのが大人になってからなので、ご自身の読み方を「大人読み」と称していました。
・当日会場には中学生の団体がいて、緊張すると語っていました。
・今回の展示に合わせて、各作家さんの話を5分前後で話す予定であることと、会場に飾られていない作品について話すことを事前に報告していました。

《大田大八さんのこと》
・それぞれの物語に合わせてタッチを変えている、数少ない作家さんの一人
・日本の最高水準=世界の最高水準だと思う。太田さんはその最高水準にいる人。
・絵本に関して様々な組織を立ち上げた。
・『やまなしもぎ』を見ると、日本画の線の多彩さを感じる。
・『西遊記』の世界観は色で表現されている。
・『大ちゃんと海』の水の描写がすごい。


《堀内誠一さんのこと》
・『絵本の世界110人のイラストレーター』は僕のバイブル。この作品を持っていない編集者を僕は信用しない。
・フランス風のユーモアと大人の風格あるユーモアを併せ持った人。
・堀内さんのエスプリを継承しているのは、100%オレンジだと思う。


《長新太さんのこと》
・『ちへいせんのみえるところ』…文を読んでも何を書いているか分からないことが絵本の真髄。長さんはその真髄のど真ん中にいた人。


《スズキコージさんのこと》
・『サルビルサ』…意味のない言葉を逆さにしていることの妙


《佐々木マキさんのこと》
・『作品名不明』…トムズボックスの土井さんが企画したシリーズの一作目。
・変さ加減、コラージュの面白さを読者に純粋に楽しんでほしい


《黒井健さんのこと》
・自作の絵本が少ない作家さん。
・人の文に絵をつけるときには、解釈力が必要となる。
・パステル調で描くことで、ファンタジー色が強く現れている。


《浜田桂子さんのこと》
・日常を書くことの難しさ(日常を書こうとするとどうしても現実に負ける)
・浜田さんは日常を描く難しさを感じさせない人
・『ぼくのかわいくないいもうと』は浜田さんの新境地だと思う


《林明子さんのこと》
・『こんとあき』『はじめてのおつかい』
・ページをめくることで魅力を増していく絵本

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2009年09月01日

WAVEinびわこレポート@

〔 太田大八自伝『紙とエンピツ』を編集して 〕レポート
落合直也さん(BL出版編集長)、太田大八さん(絵本作家)
日時 09/07/26 10:00〜
場所 佐川美術館(滋賀県守山市)


■はじめに
2階の満員の客席の中で、落合さんと太田さんのトークがスタート。
落合さんが質問し、太田さんが答えるスタイルでトークは進み、
時折交える太田さんのジョークに会場はおおいに湧きました。
以下、内容の抜粋です。


■内容抜粋
○この本の出る経緯
落合さん:
この本をつくるにあたって、「PeeBoo」という雑誌は忘れてはいけないです。

太田さん:
「PeeBoo」は同人誌的にやっていこうという考えがあった。
しかし作るにはお金がかかるので、出版社もからめられればと思った。
でも出版社に遠慮せずに書きたいという気持ちもあった。

落合さん:
20年経ち、違う形で「PeeBoo」を読めた気がします。
太田先生にはずっと「書いてください」とお願いしてきましたが、やっと書いてもらえた。

太田さん:
田島征三さんから、「自分史をつくればいいんじゃないですか」というアドバイスをもらったんですよ。

落合さん:
私はガブリエル・バンサンの本を以前つくったのだが、頭の中にはこの本がベースにあった。
今回、この企画展があったからお尻が決まった。それが本当によかった。
あらためて振り返ると、ものすごい仕事をたくさんされている。
太田さんのたくさんの絵本をどうやって紹介していこうかなと思いました。
カラーページは限られているし、悩みました。
しかし、ベースには「PeeBoo」がある。
そこで、鼎談にすることにして、穂積さん、和歌山さん、太田さんでしゃべってもらった。
そして、「PeeBoo」の編集に関わった人にエッセイを書いてもらった。

太田さん:
「PeeBoo」→「絵本学会」→「WAVE」という流れがある。


○絵本作家になるきっかけ
落合さん:
最初、1949年に原書店より『うさぎときつねのちえくらべ』を出版された。
僕はまだ生まれていなかったです。

太田さん:
これが僕の最初だった。
中学生時代の同級生が原書店で編集をしていたんですよ。
また、この本をみた人がいろんなところを紹介してくれた。
つくづく、友達は大事ですね。
その後、学校図書の理科のおかげで原稿料がたくさん入って、練馬に土地を持つことができた。

太田さん:
挿絵は昔、低くみられていた。
でもそれはまちがっている。イラストレーションというのはすばらしいアート。
3回ぐらい展覧会をやり、いろんな著名人の応援を得た。
それで、挿し絵の価値もあがったのではないだろうか。

太田さん:
童美連ができる前、美術家の著作権が非常に曖昧だった。
教科書会社は画家には印税を払わない。
4年ぐらい談判にいった。50社ぐらい集まって。
喧嘩したら負けると思ったので、示談100万円で攻めた。
そしてこのお金が、児童美術家作家同盟の資金になり、後に童美連になった。


○アメリカ旅行
落合さん:
70年、はじめてのアメリカ旅行が2ヶ月。抵抗なかったですか?

太田さん:
アンデルセン賞の審査にいってた神宮先生から、主席はセンダック、次席が自分だと聞かされた。
センダックに会いたくてアメリカにいった。
図書館でセンダックについて尋ねてみた。
その人に自分が次席の太田だと言ったら驚いていた。
日本ではせいぜい新聞に乗る程度。
アメリカはニュースとして全米図書館に配布する。
その姿勢に自分も驚いた。
作家と朝食をの会(400名)に呼ばれ、
8時半からご飯たべながらディスカッションした。
あれにも感心した。
こどもの本の接し方が、日本はちょっと遅れてるんじゃないかなと思った。
八島太郎さんにも会った。センダッックはスーツ姿だった。
自分はカジュアルだったので驚いた。
あとで聞いたらセンダックはフォーマルが好きなのだと知った。

太田さん:
ワシントンスクウェアに行ったら、黒人が座っていた。
一瞬危ないかなと思ったら、煙草をあげて、なにもなかった。
その当時は僕は52歳だった。


○太田さんと旅
落合さん:
日本ではなく、ボローニャではじめて田島ご兄弟に会われたのですよね。
その後意気投合して、スペインも一緒に廻られた。

太田さん:
堀内さん、長さんとは新宿で朝まで飲んだり、パリで飲んだりした。
堀内さんがムーランルージュのそばに安宿を紹介してくれた。
そばに日本語で「ラーメンあります」というポスターが貼ってあった。
いい所に来たと思った(笑

落合さん:
太田さんは自由に旅をされている。
ボローニャは仕事で行かれているが、非常に長期で旅をされている。

太田さん:
イタリアで魚をつってその場でやいて食べたりしました(笑
ニューヨークにいる時、メキシコにも行きたいと思いそのまま行った。
一晩泊って帰ろうと思ったら、夜のメキシコの街がすごくよかった。
なんとも旅情を感じさせるいい街。
トランペットの看板があったから飲み屋かと思ったら、サントリーの角瓶があった。
水はあぶないから、ストレートで3杯飲んだ。

太田さん:
僕はどこへいっても嗅覚がいいので、いいお店を当てれる。
ドアの取っ手のデザインや、雰囲気でわかってしまう。


○国際交流について
太田さん:
絵本は国際交流にもってこいのメディア。
絵は誰が見ても言葉なしでわかるから。
野間コンクールでグランプリをとったカンさんに、「日韓交流イベント」を持ちかけたら快諾された。

太田さん:
一番良かったのは、言葉はよくわかんないけど飲み会ですごい楽しそうだったこと。
中国で孫悟空を書きたいという話をしたら、すごくよろこばれた。
これからも交流をやっていきたい。
でも90歳なんであと一週間ももつか・・・。

落合さん:
それ、何度も伺ってます(笑


○制作面でのバタバタ
落合さん:
ブックデザインは杉浦範茂 さん。
「これでいいですか?」と太田さんに話したら、土壇場で「変える」と。
焦った。「絵をすぐもらえますか」と返した。
6/20にこの本を出したい。
6/1に絵ができた。
杉浦さんががんばって、デザインを受け取ったのが6/2。
6月は神戸ではインフルエンザが蔓延。
東京行きたくても行きにくい。。。
6/4に最終打ち合わせをしてデザインの変更となり、6/8にデザイン上がり、6/9に修正版提出となった。
もう、大変でした。


○太田さんのこの本の印象
太田さん:
絵が上手い。誰が書いた本?
あ、あの有名な太田さんの本か!
いろんな人に読んでほしいと思います。


○最後に一言
太田さん:
ひとこと。

太田さん:
本来の目的はだいたい終わったように思います。
画家の著作権を得ることができたし。
今は好きな絵を描いていきたい。
絵本もつくりたいし、タブローも描いていきたいな。


■雑感
太田さんの言葉は軽妙洒脱の中に、ブレない力強さがありました。
あらためて、弱者、マイノリティを熱く強く支えてくださる存在だと思いました。
それにしてもお酒にまつわる話が多い(笑
太田さんのような90歳になることはまず無理ですが、少しでもあのカッコ良さに近づきたいと思った次第です。
そして、太田さんの魅力を一冊にまとめられた落合さんの力量にも感服です。
お二人とも本当にありがとうございました。
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2009年06月16日

訂正です

WAVEinびわこのチラシに一部訂正がございます。

「※美術館へのご入館には入館料金が必要となりますが、イベント参加者は特別優待(半額)にてご入館いただけます。」

↓ ↓ ↓

「イベント参加者は無料にてご入館いただけます。」

WAVEinびわこご参加の方は当日「太田大八とえほんの仲間たち展」が無料です!!

絵本三昧の一日を琵琶湖のほとりでのんびりすごしてみませんか?
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